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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    呼び名を知れば(つければ)安心?

    作品の石膏型 撮影 松田光司作品の石膏型

    さて、得体の知れないもの、また訳の分からない行動や心理、・・・これらに名前がつけられたり、もしくはその呼び方を知ったりすると何故か安心しないか?



    ・・・例えば、
    「ああ、それは○○人に一人の割合で特に○○の世代に多く見られる○○病という病気ですね。」とか、「経済におけるこういった動きを総称して○○経済と呼ぶんですよ。」とか、「心理学の世界ではそういう人の事を認知的○○性が高い人と言いますね。」とか、・・・。

    まあこんな感じの事を言われれば、それが未知のものではなくなったというだけで、何となく安心する人が多いように思う。


    しかしそれはそれでいいとして、・・・
    確かに安心はするのだが、その後それについて分かったような気になって一切深く考えなくなる傾向が人にはあるのではないか。

    これはある意味、新聞や雑誌の見出しだけを見て、それについて知った気になっている感覚と似ている。

    また、本来その存在を認めるべきではないものであったとしても、名前がつく事によってその存在を許してしまう事にもつながるようにも感じる。

    実は「呼び名をつけた、呼び名を知った」という事以外何も解決していないのだが、すべて解決済みの事のような錯覚に陥ったりするのだ。

    しかし、個々をそれぞれに見ていけば、その状況、心理、行動の奥にはそれぞれ全く違った事情があって当然なはずなのに、それこそ「100人いれば100通り」という当たり前の事を考えなかったりもするのである。

    その一方的につけてしまった呼び名(というかレッテル)に無意識に押し込めて見ようとしてしまう傾向がどうしても出てくるように思えるのだ。

    さらにそのレッテルを押しつけられた側も最初はそうでもなかったはずなのに、その期待に応えるがごとく、そのレッテル通りの行動を取ったり、そのレッテル通りの心理状況に自分を追い込んで行ったりする事もあるように思うのだ。

    それが良い方向に働けば良いのだが、結構悪い方向に行ってしまう事もおうおうにしてあるように感じる。


    本来、「未知の状態、物体、行動、心理、等々」の呼び名がつく(分かる)というのは、やっとそれに対しての考察が始まるという事を意味するはずなのだが、実はそこで思考停止してしまっている場合の何と多い事であろうか。

    実際にはその呼び名一つで説明しきれるような単純な心理、行動ではないはずなのに「あー、あれは○○だから。」の一言で片付けてしまうといった危うさを感じてしまう。

    実は、呼び名を知らない時の方が、たとえ的外れであったとしても思考し想像力をより働かせているような気もする。


    まあ、私がこうやって色々と考えている心理や行動も 「あー、こんな風にブログでゴチャゴチャと書いている人の事を○○というんですよ。」 の一言で片付けられてしまうのかもしれない。
    ・・・という事は容易に想像できる(笑)。
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    1. 2012/10/03(水) 13:14:40|
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