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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    言葉と作品。

    生誕―螺旋Ⅰ(部分を撮影) 松田光司作「 生誕―螺旋Ⅰ 」 (部分)

    私も主にこのブログを通して作品について色々ゴチャゴチャと語ったりしているが、なにか虚しく空々しく感じる事がたまにある。


    確かに、『その作品をつくった人の言葉だから妙に説得力がある。』という見方もあるのだが、その作品について熱く語れば語るほど、また冷静に分析すればするほど、逆にその作品の魅力を削いでいってしまうような気もするのだ。

    まあこれもいつも言っている事ながら、100人いれば100通りの考え方がある訳で、私はそう思っているというだけに過ぎないのだが、それにしても最近の傾向として、作品の説明が多すぎる、・・・というか、作品の説明を求められ過ぎているような気がしてならない。

    そこが作品鑑賞への入り口、・・・という人達も決して少数派ではないので、それも分からなくもないのだが、そのいかにもそれらしく飾り立てられたコンセプトや説明が、実は作品をものすごく矮小化しているといった例も山ほど見て来ているのである。


    『はたしてこの作品にこのコンセプト、・・・いや、こんなどうでもいい能書きは必要なのか?』

    ・・・と何度考えさせられたことであろうか。


    例えば、美大の卒展などで見られる雑然とした展示。

    作品の下、床に直接置かれた『コメント下さいのノート』や『コンセプトの書かれたノート、作品ファイル』など。

    会場を周ると、作者らしき学生が知人に色々と語る言葉を小耳にはさむ事もあるが、そのもっともらしそうなコンセプトに照らし合わせて、明らかに展示を邪魔する床に直接置かれたノート類はOKなことなのであろうか?

    つくり手にとって、もっとも強い発信源であるべき作品というメッセージボードを、明らかに見づらい状況に陥らせてしまう意味が全く私には理解できない。

    作者が一番見せたい情報は、床にゴチャっと汚く置かれたノートに書かれた言葉なのか作品なのか・・・?


    作品に対する説明やコンセプトが、まったくいらないなどとは決して言わないが、・・・人は、自信がない時ほど、また不安な時ほど、言い訳の意味も含めて雄弁に語りたがるものなのだ。

    ブログでこれだけ色々と書いているおまえが何を言うか、と言われてしまいそうだが、・・・・多々、思い悩む事もありつつ、私の中で『彫刻作品が主であり、言葉が従である』という原則が揺らいだ事は一度もない。
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    1. 2012/03/19(月) 18:05:58|
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    1. 2012/03/21(水) 17:35:08 |