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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    街なかの裸婦像。

    志  松田光司作「 志 」 (ブロンズ)

    一昔前からよく議論されている事だが、「街なかの裸婦像」について私の考えを少し書いてみたい。
    (ここで取り上げる「裸婦像」とは男性像と女性像両方についての事である。)


    まず言っておかなければいけないのだが、「どんな時代のどんな場所(国、県、市、村、等々)なのか?」という事によって価値観は全く変わってしまうという事実。

    当たり前の話だが、同じ時代であったとしても場所により価値観は全く違うし、また、同じ場所の事であっても時代によって価値観は全く変わるものなのである。

    この前提なくして、この事について語る事は出来ない。


    さて、こういった考えからすると、少なくとも、日本において街なかに裸婦像が存在するという事は、間違いなくそれを良しとする価値観を持った時代があったという事であり、また、それを良しとする価値観を持った場所があったということを意味するのである。

    私は美術史の専門家ではないので、それがいつ始まり、どこが最初だったのかは知らないが、よほどそれが魅力的な行為でもない限り、ある時代のある場所だけで終わってしまうのであろうと推測される訳である。・・・しかしそうはならなかった。

    つまり、間違いなく「街なかの裸婦像」という存在が、ほぼ日本全体に受け入れられた状態があった訳である。


    しかし、かといって、「だから今もそれはOKである。」・・・という結論にはならない。


    最初に述べた通り、時代とともに価値観は変化するものであり、場所によっても価値観は変わるものなのである。

    また、時代や場所だけでなく、今は特に個人の価値観も多様化している時代なのである。

    「街なかの裸婦像」に違和感を覚える人が出て来るのも当然の事であろう。


    私はそれをつくる側の人間であるのだが、確かに、『えっ、あの場所にあの裸婦像?』と思った事は正直、何度となくある。

    ・・・しかし、私の場合、それは決して全否定の意味ではない。

    過去色々な作品に接する機会があったが、見事に街なかに調和し、そこになくてはならないと思えるような裸婦像もいっぱい見てきているのだ。


    合う合わないという事で言ってしまえば、裸婦像に限らず、街なかで違和感のある造形作品もいくらでも存在するし、見事に景観と調和した造形作品も存在する訳である。

    この観点で考えると、「裸だからとにかくダメ。」と考えてしまうのは、あまりにも単純で早計過ぎはしないか?


    また、もう一つ言ってしまうと、今現在蔓延している価値観というのも、未来に向けてさらに変わっていくものなのである。

    そう考えると、現在の価値観と合わないから無くしてしまえ、・・・というのも、それはそれで何か違う気がするのだ。


    さて、まあ色々と言ってきたが、結局この話の要点は、「裸というものに対する価値観」と「芸術に対する価値観」、この二つをどう捉えるのかという事になるのであろう。

    しかし、多様化してしまった今現在の価値観のもとでは、どう考えても統一した見解など出てくるはずもない。

    何となく、多数を占める意見の方が世の中を動かしやすいのかもしれないが、かといって少数派が絶対に間違っているという事もないのだ。

    一般論のような話になってしまうが、結局、自分の正しさを主張したいのならば、相手の正しさも認める所から始めなければ事は進まないのだ。



    では最後に、私はどう思っているのかと言えば、

    ・・・基本的に「街なかの裸婦像」は「 有り 」だと考えている。

    もし、それがダメというならば、他にも 「これ、街なかに置くのはどうよ?」 と思えるものはいっぱいあるのだ。

    「裸婦像」だけをヤリ玉に挙げるのはよしてもらいたいものである。
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    1. 2011/09/03(土) 23:34:28|
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