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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    軌跡の一つとなる作品。

    クローバー 撮影 松田光司

    前にも書いた事だが、私は毎回、その時の自分の100%力を出し切った作品をつくり続けている。
    私の中で「100」を出し切っていないと感じた作品は、いまだかつて一度も発表した事がない。


    しかし、この「100」というのも、その時に自分が出せる、その時の全ての力と言う意味での「100」なわけで、これを誰か他の人が客観視した時に、当然、作品の評価にバラつきはある訳である。

    つまり、他人からすれば、私のその作品が「50」に見えたり「200」に見えたりする事もあるのだ。

    ・・・ならば、世に発表するかどうかを、他人の判断に委ねたりする事があるのか、・・・・と言えば、絶対にそのような事はしないし、あり得るものではない。

    なぜならば、他人の評価はどうあれ、私の中で「100」を出し切ったと思える作品に対しては、何の未練も心残りもないからである。

    私の中では、他人の評価より、自分がその作品に対し、納得出来ているかどうかの方が、全然重要な事項であるのだ。


    また、これも以前書いた事だが、作品と言うのはアトリエでつくり終えた時が完成ではなく、展示や設置をした時に初めて完成したと言えるものだと私は思っている。

    この『展示や設置をする』という経験はとても重要で、この状況というのは、ある意味言い訳もきかないし、手も下せない状況になる訳である。

    すると、この時初めて、自分がその時出し切った「100」というものに対して冷静に見つめ直す事が出来るわけである。

    要するに自分の今現在の「100」の形とはこれなんだと、自分自身認める作業をする時間であったりもするのである。

    これをもし、他人の意見で「世に出す、出さない」を決めてもらっていたらどうであろうか?

    これが今の自分の「100」なんだと肯定するにしても否定するにしても、まったく説得力を欠いてしまうのではないか。


    私はこう考えている。

    今の作品よりも、次、次の作品よりもさらに次、・・・と作品が必ず素晴らしくなっていけば、そんな楽な事はないのだが、そうはならない。

    必ず、波はあるものなのである。

    しかし、その波がたとえ低くても高くても、それがその時々の「100」を出し切った作品群により生み出された軌跡である限り、それは私の歴史となり、私の財産となり、私のパワーとなり、次に何かを生み出す源となってくれるのだ。


    さて今日も、私の軌跡のうちの一つとなるであろう作品に、真正面から取り組んでいくとしますか。
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    1. 2011/04/24(日) 17:12:17|
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