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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    「美味い、まずい」と「上手い、下手」。

    青梅の山にて 撮影 松田光司

    人は食べ物に対し、美味しいとかまずいとか、何気なく感じながら食べている。


    ここから先、私が勝手にそうではないか、と思っている推論を書くのでご了承願いたい。

    太古の人間の祖先の事を思いながら考えてほしい。

    美味しいと感じる食べ物というのはやはり身体に必要なもの、・・・つまりこれは逆に言えば、身体にとって必要であるものを美味しいと感じるように脳が進化した、・・・と考えられる。

    それに対し、まずいと感じる食べ物はどうか?・・・と考えると、それは食べると生命にとって危険なもの、つまり腐っているとか、毒性のもの、・・・こういったものをまずいと感じるように脳が進化したのではないか、・・・と考えられる。

    要するに、美味いとかまずいという感覚は、人間の生死に関わる極めて重要な本能から発達してきた感覚ではないかと思うのだ。

    それが、いつの時代からなのかは全く分からないが、そこに情報という要素が加わってきたわけである。

    すると、もう身体に充分補充されて、さらに摂取する必要がない場合でも、美味しいといわれてしまうものは食べ過ぎたりする。
    また、毒も入っていないし、腐ってもいないのに、味付けが悪いだけで、まずい、と感じてしまうようになってしまった。

    本来、まずいという感覚は、食べると死ぬかもしれないものに対し、感じていたはずなのだが、今はそこまで中々考える事はない。

    つまり、おおもとの出発点からすると、「美味い、まずい」という感覚も意味が変わってきたように思うのだ。



    さて、ここからガラッと話を変えるが、私の中での疑問であり、まだ私なりの答えは出ていないものである。

    歌や演奏を聴いた時、上手い歌や演奏は心地よくなり、気持ちがいいものであるが、音痴な歌や下手な演奏を聴いた時にはものすごく不快になる。

    何故なのであろうか?

    たとえば、音痴な歌の場合、その原曲を全く知らなくても、何故だか音痴と分かるのも不思議だし、また何故そう感じてしまうのであろうか?

    これは知らない国の人が歌っていても、音痴な歌は音痴と感じてしまう。

    食べ物の「美味い、まずい」の場合、大もとを手繰れば、人間の生死に関わる本能の部分に出発点があるのではないか、と推測出来た訳だが、・・・

    歌や演奏の「上手い、下手」と感じる感覚というのは、人間の生死に関わる本能の部分に出発点がある、・・・とは思えないのだが、どうなのであろうか?

    まあ、生死に関わらなくとも、人間の本能には関係しているような気がするが、だとしたら、それがどこから来ているものなのか?また、何が始まりなのだろうか?

    例えば、不協和音を不快と感じるのは、地震、竜巻、雷、津波、嵐、雪崩、噴火、豪雨、猛獣の声、等々、人間が恐怖を感じる音と何か関係しているのかもしれないと思えるのだが、音痴な歌や下手な演奏はその時感じた不安や恐怖と何か結びつく接点でもあるのだろうか?


    私は専門家ではないので、その理由はやはり分かるものではないが、人間が音痴な歌や下手な演奏を、不快と感じるようになってしまった根源の理由は必ず何かあるはずである。
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    1. 2011/04/20(水) 10:31:40|
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