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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    作品のかけら達。

    「妖精卵ー水」とその削りかす 撮影 松田光司「 妖精卵―水 」 石膏制作途中 (下側に見えるのは石膏の削りかす)

    彫刻をつくりながら、ふと思う事がある。


    ・・・例えば粘土でつくったテラコッタ作品。


    その作品を制作するために粘土が用意される訳だが、当然、余分に多めに用意しておく訳である。

    すると、ある粘土はテラコッタ作品として焼成され作品として後世に残される訳である。

    かたや同じように作品のために用意された同じ粘土が、スポットライトを浴びる事もなく、ひっそりとアトリエの粘土用バケツの中、眠る事になるのである。


    ・・・例えば、石の作品。


    最初は大きな塊だった石も削られ、剥がされ、割られ、どんどん小さくなっていく訳である。

    作品として残った石は綺麗な展覧会場に並びスポットライトを浴び、人から見られるという使命を帯び存在していく訳である。

    一方、ノミによって斫られた石の破片たちは・・・石のこっぱ捨て場に捨て去られ、忘れ去られるのである。


    ・・・例えば絵画作品。


    画家もふんだんに絵の具をパレットに広げるが・・・作品の表面に色として光を浴びるのはごくわずか。

    絵の下地の色として表に出ない絵の具もあるが、それはまだ作品の一部として存在していけるもの。

    そうでない絵の具はパレットにへばりつくか、水場で洗い流されて終わりである。


    こう考えてみると、かつて人々が作り出してきた数え切れないほどの作品群が大切に展示、保管される一方、その量をはるかに上回るのではないかと思われるかつての片割れ(材料)が今も地球のどこかに眠っている訳である。

    選ばれた材料、捨て去られた材料、たまたま運命のいたずらで、全く違う存在となってしまったが、どちらに行ってしまったとしても、作家にとっては全く同等の輝きと価値を持ち、絶対必要不可欠な存在であった事だけは確かなのだ。


    さて、今、私の手に付いている粘土は果たして、・・・土に返る事を望んでいるのであろうか、それとも多くの人に見られる事を望んでいるのであろうか?
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    1. 2011/03/08(火) 09:30:16|
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