FC2ブログ

    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    「師」と呼ばれる人たち。

    池の鯉 撮影 松田光司

    私も一応、大学で非常勤講師をやっているので、「先生」と呼ばれることもあるのだが、今日は「先生」というよりも、色々な世界において「師」と呼ばれる人たちの役割について少し考えてみたい。


    私の考える「師」についてであるが、まず、結論から言ってしまうと教えるべきは『進むべき方向』であると思うのだ。

    その方向を指し示すと言う事はつまり、師自身が明快に、『私は信念を持ってこの方向に向かって歩いているのだ。』と示す必要があるという事なのである。

    その歩いている姿を見たり聞いたりし、集まってきた人たちの前の方に立ち、・・・そして歩いて行く訳である。

    ただし、最初はその師の歩く姿に共感してやってきたとしても、もともとその師とは違う人間の集まりな訳である。

    当然、最初からその師の真横を歩く人もいるであろうし、その師の少し前を歩いている人もいるかもしれない訳である。

    やはり100人いれば100通りの進むべき道がある訳で、その師と寸分もたがわず同じ道を歩む人はいないのである。


    つまり、師と共に歩く人たちは、最初は訳も分からずついて行っていいと思うのだが、その道程で自分の進むべき道を発見出来たならば、(その師がいい悪いに関係なく)その師を離れ自分の道を進むべきなのである。

    その時、師は「去るものは追わず、来るものは拒まず。」という姿勢で、一切動じることも無く、たんたんと自分の道を進めば良いのである。

    師の後ろを歩く人が、師にすっかり依存してしまっている姿をよく見かけるが、実は師の方も後ろを歩く人に依存してしまっているというパターンもよくある事なのだ。

    それが、傍から見るとどう見えるかと言えば、・・・歩みが止まり、停滞した状態に見えるのである。

    もし師が足を止めてしまえば当然、去っていく人たちも増える訳である。
    しかしその時、去っていく人を引き止めようしたとしても、歩みを止めた師になんの魅力も説得力もない訳で、結局人は去っていくのである。


    ここで最初の結論に戻るわけだが、やはり「師」という存在は、『進むべき方向を示す事』そして、なおかつ『自分自身も信念を持って歩み続ける事』
    ・・・それを自然にやっている人たちが「師」と呼ばれているのだと私は思う。
    スポンサーサイト



    1. 2011/03/01(火) 11:44:16|
    2. 思想
    3. | トラックバック:0
    4. | コメント:0
    <<背中。 | ホーム | 無責任でいられる状態。>>

    コメント

    コメントの投稿


    管理者にだけ表示を許可する

    トラックバック

    トラックバック URL
    http://mitsuji415.blog28.fc2.com/tb.php/315-f81af1b8
    この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)