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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    人間が出来ているという勘違い。

    障子 撮影 松田光司

    私が19歳で上京し、彫刻の道を歩みだしてからの、最大の「悟り」であると思っている「悟り」がある。

    それは、  「自分は全く悟っていないという事を悟った。」  ・・・と言う事である。

    何だそれ?というような何だかふざけた悟りのように感じるが、少しこの事について書いてみたい。

    まず、最初に「悟り」などと書くと大げさな感じがするので、これを簡単な言葉に言いなおしておこう思う。

    「私は自分が出来た人間ではない、と言う事が分かった。」 と言ったような感じであろうか。

    この言葉が出てきたおおもとを探っていくと、これは私の作品づくりに対する信念のようなものがおおいに関係している事が分かる。

    今は少し考え方も変わってきているが、学生の頃、この彫刻をつくるという行為に対し、何か「彫刻道」といったような「道」であると考えていたのだ。

    つまり「彫刻道を探求して彫刻を極める」=「人としての道を探求し、人として究める」と考えていたのである。
    正直、今はここまで直結はしていないが、当時は目の前しか見る余裕もなく、一つの事を信じたらそれに向かいただがむしゃらに進むしか他に方法も知らなかったのである。

    ・・・で、学生の頃と言うのは作品に対する伸びしろもいっぱいあり、一つ作品をつくるごとにものすごく作品が変わっていく時期でもあった訳である。

    要するに、新しくつくる度に前の作品より素晴らしいと思える作品が当たり前のように出てくる訳である。
    それを私は「作品の向上」=「人間としての向上」と勘違いしていたのである。

    その勘違いは4年生あたりでピークに達する訳である。
    卒展でも公募展でも続けて賞をとってしまったものだから、「作品を極めた」=「人として極めた」
    ・・・みたいな思い込み。

    まったく勘違いも甚だしいというか、はっきり言ってそうとう間抜けな状態であった事は間違いない。

    まわりは一切見えていないくせに、目の前の事だけ見て、人生が分かったような気になっていたのである。

    しかし、まあありがたい事に、私のまわりは優秀な友達や先輩方、先生方といった実に人間の出来た素晴らしい集団に囲まれていたため、やがて自分が「単なる勘違い野郎」になっていた事に気付かされた訳である。

    その時思った事が「自分は全く悟っていないという事を悟った。」 という事であったのだ。


    ・・・今は「悟り」にはほど遠い道のりを一歩一歩、ただただ進む日々の繰り返しであるが、
    ・・・さて、あと数十年の人生で何がどれくらい分かるのであろうか?

    ・・・やはり実際行ってみなければ分からない。
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    1. 2010/12/08(水) 17:20:53|
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