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    彫刻家 松田光司のひとりごと―思いつくまま―

    彫刻の制作をしながら日々思いつくことを書きとめる。

    彫刻とは?

    不動心(伊達冠石)  松田光司作
    「 不動心 」 (伊達冠石) 1989年 卒業制作展 東京都美術館

    色々とこのブログで書いてきたが、この簡単な「問い」にふれていなかった事に今気付いた。
    「問い」は簡単な言葉だが、やはり一瞬考えてしまう。


    普通に生活していてよく聞かれる言葉なのだが、彫刻に限らず、美術全般に対し、「それがなくても暮らしていけるものだ。」・・・と。

    しかし、実際にはどうであろうか?
    過去の歴史を振り返ってみて、どの時代でも、どの国(場所)でも彫刻、絵画などの造形が存在しなかったという事は、ほぼないはずである。(歴史の専門家ではないので、私の知る限りではあるが。)

    未開の地と言われている場所でもプリミティブな彫刻や絵をテレビなどでよく見かけるであろう。
    また戦争中などは、一見なさそうにも感じるが、国威発揚という意味で美術が利用されていたりするのだ。

    ましてや平和な時代においては美術の活動はおおいに盛んになっている訳である。

    こう考えると、まず言えるのは、時代や場所により意味合いは違ってくるものの「美術(造形)」は人間にとって必要不可欠な行為であったと言えるのではないか。


    その前提に立って、「彫刻」について考えてみたい。

    私が思うに、やはり「彫刻」をつくるというのは衝動であり、欲求であるのだ。

    何か一生懸命考えて、つくろうと思ってつくっているのではなく、内側から湧き上がるエネルギーを抑えきれず、溢れだした思いを行動に移したものが彫刻制作というものであるのだ。

    極めて個人的な行為なのかもしれないが、その形や意図する所というものは、まず間違いなくその時代や場所から影響を受けたものであると考えていい。

    たまたま一人の人間(もしくは一つの工房)がつくった、というだけで、大きな目から見ればやはりつくらされているものなのだと考える。

    そして、「彫刻」というものは絵と違って二次元ではなく、立体である。
    ここにも「彫刻とは?」という問いに答える大きな鍵があるように感じる。

    これは私が常々考えている事なのだが、やはり彫刻というのは物質の塊であると同時にエネルギーの塊であるのだ。
    その創り手が放ったエネルギー、もしくは時代が放ったエネルギーがそのまま目にみえる形に変換され、その塊の中に封じ込められているのである。

    ある意味絵画より、より直接的なものである。
    360度どこからでもみる事が出来、なおかつどこからでも手で触れる事が出来る物なのである。

    人は、土や木、石、金属などあらゆる素材を使って彫刻を作り続けてきた。
    多分最初はその素材の使い道も必要な道具をつくる事から始まったのであろう。

    しかし、それだけでは物足りなかった。人々の欲求が「造形」というものを生み出したのだ。

    「彫刻」・・・・呼び方や意味づけは時代や場所によりまったく変ったものとなってしまうが、手で触れる事の出来る「造形物」として、訴えかけてくる「何か」を内包した存在・・・・それが私の考える範囲での「彫刻」である。
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    1. 2010/09/16(木) 11:53:33|
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